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アフリカへの想いを語る インタビューに答えて

1980年代以来、国際協力活動に関わってきたAJF代表理事・林達雄が折々に発したメッセージです。


林さん、こんにちは。

*林さんは、いつごろからアフリカに興味をお持ちだったのですか?子どもの頃から興味があったんですか?

子供ころは冒険もののノンフィクションがすきでしたが、格別アフリカに興味があったわけではありません。興味を持ったのは現実にアフリカに行ってからです。

*林さんは,医学部卒業ですね。医者を志そうと思ったのは何故ですか?

メンタルな面での苦しみを自分自身も抱えていたので精神科の医師になりたいと思っていました。その後、アジア・アフリカに惹かれていったのも、精神的に癒されたからです。

*その後日本の病院で医師として働いた後、国際協力の分野に入ったということですが、きっかけは何だったのですか?

学生時代の最後にインドとタイを旅行しました。タイを訪ねた際、カンボジア国境にある難民キャンプを友人に案内してもらいました。そこには医師団がいて、地雷で怪我をした人たちの手当てをしていました。そのとき、自分もこんな場所で仕事をしてみたいと感じたのです。使命感に燃えて志したのではなく、アジアに身をおきたい。その方が日本にいるよりも「生きる」ということが何かを学ぶことができると思えたのです。

*最初に行った外国はどこですか?

タイとインドです。チープ・チープジャパニーズ・トラベラーとインド人たちに言われながら貧乏旅をしました。

*最初はタイやカンボジアで活動していたそうですが、そのときのお話を教えてください。

国境のカンボジア側で医療活動を手伝っていました。朝、国境が開く頃、カンボジア側に出かけ、夕方にはタイ側にもどるという毎日でした。紛争の渦中にあったため常に無線機を携帯し、安全かどうかを確認しつつ動く毎日でした。この難民キャンプでの経験が、エチオピアでの医療活動を始める際、役に立ちました。

*1980年代中期にエチオピアでの医療活動を開始したそうですね。きっかけは何だったのですか?

タイでの活動中に、私を派遣した団体(JVC)の本部から電話を受けたのです。
「エチオピアで医療活動を開始することが決まった。君に是非行ってほしい。明日までに決めてくれ。」と突然言われました。急なことだったので迷いましたが、自分も一度は何もないところから活動を始めてみたいと思っていましたので、「えいっと」決断しました。そのときまで、エチオピアのことなど何も知りませんでした。準備すべきことは山ほどありましたが、間に合わないので、体力だけでもつけておこうと考え、毎朝ジョッキングをしていました。

*大飢饉のニュースは日本でも大々的に報道されていたときですね。正直に行って、行くことにためらいは無かったのですか?

日本に帰国するとエチオピアの飢饉について大きく報道されていたのでびっくりしました。ただ、タイ・カンボジアでの経験から、「日本での報道」と「現場での実感」の間にはギャップがあることを知っていたので、日本の新聞が何を書こうと気にしないことにしていました。人が何と言おうと、自分自身で見て、触れて確かめるという癖がアジアの経験の中で培われていたのでしょう。

*当時のエチオピアの状況を教えてください。混沌としていましたか?

飛行機で到着した首都のアディスアベバは落ち着いていました。紫色のジャカランダの花が咲き誇る美しい街でした。そこに居るとエチオピアの北部の人々が飢えてているとは想像できませんでした。
国道を北上するにつれ、状況は変化してゆきました。大地は青ナイルのつくる大峡谷に分断され、乾ききってゆきます。6時間ほど走ると、道の両側に点々と飢餓民キャンプが見えてきました。仮設病院をのぞくとやせ細り、眼窩のくぼんだ人が横たわっていました。食糧配給所の前には人だかりができています。「どこから歩いてきたのか?」とたずねると「歩いて一週間かかる所からだ。」という答えが返ってきました。
当初この国道上に診療所を設置しようと考えていました。しかし、そこでは飢えた人々には遠すぎる。たどり着くまでの間に疲れ果て死んでゆく。そこで、私たちはさらに奥地に入り、そこに診療所を作ったのです。
一年間で1万人以上の人を私たちの医療チームは診療し、500人以上の人を看取りました。20人以上の墓掘り人夫をやとった時期もありました。
北部で100万人の餓死者がでていたころ、エチオピアの最も良い土地ではヨーロッパに輸出するための生花をつくっていました。外貨を得るためです。政府の借金(債務)を返すためでもありました。エチオピアの飢餓も、干ばつという天災のせいばかりではありません。「人災」なんだと感じました。アフリカだけで解決できるわけではなく、日本を含む先進国の課題でもあったのです。現場での救援活動には限界があります。地域の自助努力だけでは足りません。社会全体、世界全体が本気にならなければ、飢えを防ぐことはできないのです。

*エチオピアで会った人々で、今でも思い出す人たちはいますか?印象深い方を何人か教えてください。なぜそのひとが印象深かったのですか?

最も飢えた村の長老
テーブル台地の縁で青空市の立った日、青ナイルの源流の峡谷を村の長老に伴われて下りました。最も飢えやすい村に向かったのです。飢えの兆候が濃厚になった時期です。穀物の値段が高騰し、家畜の値段が下がっていました。村の最後の財産である牛を手放し、穀物に換えるために長老は青空市にやってきたのです。
長老の村ではすでに若者たちは、食糧を求めて村を離れ、残された子供たちの世話を年寄りたちがしていました。そんな村に泊めてもらうのは内心恐かった。食糧を携えた私たちは村人から襲われるのではないかと、びくびくしていました。
ところが、現実は違いました。襲うどころか、炒った穀物をふるまってくれたのです。最後の食べ物を分かち合う優しさが待っていたのです。安らかな眠りを与えてくれました。
そんな村人たちに恩返しをしたい。そんな思いが、NGO活動をその後も続ける原動力になりました。

*さて,林さんは日本に帰国して、日本国際ボランティアセンターの代表を任されますね。そのときのお仕事などについて教えてください。

主にお金集めをやっていました。仏教系の団体を訪ね歩き、「日本人を救うだけではなく、世界の人々を救いませんか?」と呼びかけました。省庁をまわり、「欧米を見習い、日本もNGOを介した国際協力をしませんか?」と誘いました。外務省、郵政省、環境省などからのNGO補助金制度が創設されたのは、その頃のことです。

*帰国して気がついたアフリカと日本の違いはありますか?

日本の空港で飛行機を降りると、それまで色彩鮮やかだった世界が急にモノクロに変わってしまう。うきうきしていた気持ちが、急に萎えてしまう。そんな感じでした。アフリカの人に比べると日本の人たちは表情に乏しいのです。経済的にはアフリカの何10倍も豊かな生活をしているはずなのに、幸せそうな顔をしていないのです。

*1990年代の日本は、林さんから見てどういう印象を受けましたか?

元気がない。と感じました。1980年台のバブルがはじけたせいもありましょうが、海外を含めて外界に関心を持たない「うつ」状態でした。広い意味でのアフリカ仲間であるジャーナリストやカメラマンたちも職を失ってゆきました。無関心はアフリカに対してばかりではありません。米国のように「グローバル経済を仕掛け、一人勝ちしよう」という覇気もありませんでした。

*2000年頃から、林さんは積極的にエイズ問題に取り組みはじめますね。そのときのきっかけを教えてください。

1999年に直腸癌が見つかり、手術は成功し、一命はとりとめたものの、生活の上で不自由な日々が続いていました。日本にいても「うつ」がひどくなるばかりだったので、タイの友人宅にお世話になっていました。そんなとき、ある講演を聞きに行ったことがきっかけになって「エイズ」に目覚めました。自分よりもずっと若い人たちが「死の不安」を抱えながら生活していたのです。40台の癌で愚痴をこぼしていた自分が恥ずかしくなりました。
それから、エイズに夢中。知恵熱がでるほど資料を読み漁りました。帰国しても関係団体を訪ね歩き、「医者のくせにエイズのことを何もしらない」と言われながらも、エイズの「いろは」を教えてもらいました。エイズに夢中になっていたおかげで、自分自身の病気に対してくよくよせずにすみ、気がついてみれば快方に向かっていました。

*「エイズとの闘い」を執筆しましたね。これを書こうと思った経緯や、書いてからの読者の反応などはどうでしたか?

エイズに関して調べているうちにあることに気がつきました。感染症対策は予防・治療・ケアがバランスよく行われる必要がありますが、感染者のことさら多い途上国における「治療」がぽっかりと抜け落ちていたのです。96年以来、エイズの治療法が確立し、先進国ではエイズ治療が行われるようになっていましたが、途上国には薬は届かない。そんな状態が続いていました。エイズ治療薬の値段が高すぎるため「命の格差」が生じていたのです。薬の値段が下がりにくい理由に一つに、米国の戦略によって強められすぎた「特許」の問題、WTOの国際協定の問題がありました。この問題は国際世論の争点となっていましたが、日本では一部の専門家以外、誰も知らない。知らないからマスコミも報道することすらできない状態でした。その一方で日本は特許重視、つまり人命の尊重に反する立場を最後までとっていた国の1つでした。
日本はGNP世界第2位の国、国際的影響力の強い国です。その国の国民が国際問題に関心がないために、政府は人命の尊重に反する行動をとってしまう。それはあまりにも残念なことだと感じました。
この本は日本社会に警鐘を鳴らすと同時に、「希望」を与える本です。問題解決のいとぐちを創ったのはアフリカのエイズ感染者運動でした。当事者たちが先頭を切り、世界中から集まった応援の結果、途上国のエイズ治療が始まったのです。国際的な市民運動の成功の事例のひとつです。この世界にも希望はあるのだ。
日本の私たちも決して無力ではなく、子供たちの未来を創る行動に参加しうるのだ。
そうしたメッセージを日本の若者たちに伝え、激励したい。そんな想いが私にこの本を書かせました。
この本に対しては、多くの賞賛のメッセージをいただきました。同時に、ここまで書いたからには、自分自身もこの日本で行動をおこしたい。と思うようになりました。そんな想いで始めたことが「ほっとけない世界のまずしさ」キャンペーンです。

最後に

*アフリカの魅力を教えてください。

良いところも悪いところもアフリカを通して見ると「鮮明」に見えてきます。
そして人々の「素直さ」です。

*日本にいるわたしたちが,今 アフリカに出来る事はなんだと思いますか?

アフリカに関わりを持ってきた人は、なんとなくではなく、その魅力をはっきりと言葉にして皆に伝えることです。

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